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【そもそも人間学とは何か】 (道教)大道廃れて仁義あり

知古嶋芳琉です。

安岡正篤師が連続講義をされた記録で、

『東洋思想十講』という書の中から、

思うがままに引用して、

お話しを進めております。

この講義は

東洋思想を構成する儒教道教仏教に加えて、

日本の神道にまで及ぶお話しで、

ここでは道教のお話しです。

−−−ここからは、その引用です−−−

第十講 道家(黄・老・壮・列)について

○ 大道廃れて仁義あり

 そこで老子の学風というか、特徴を

原文によってうかがってみたいと思います。

世によく知られておる一文、

−−

 大道(だいどう)廃(すた)れて仁義あり、

智慧出でて大偽(たいぎ)あり、

六親和せずして孝慈あり、

国家昏乱(こんらん)して忠臣あり。

−−

大道というのは

何人も

これに拠らなければ

歩けない、

進めない、

これが大道であります。

その大道が行なわれている間は

人間は無心である。文句がない。

大道が廃れるから

仁だの義だのと

やかましく言われるようになる。

つまり、

仁義を論じなければならぬというのは、

すでに

人間が頽廃していることの

何よりの証拠である。

こういう考え方であります。

同様に

智慧が出ると

大きな偽:うそが生じる。

偽という字は

人偏に為、「なす」と

書いてありますように、

第一の意味は

人間の「わざ」、

つまり

技術の技と同義であります。

しかし、

人間のすることは

とかく

天地・自然の真理に背く、

大道から外れる。

そこから転じて

「うそ」という意味になるわけです。

現代文明はこの大偽に苦しんでいると申せます。

大いなる人為

すなわち

知識・技術によって

文明はできたのでありますが、

気がついてみたら、

いつの間にか

その

誇ってきた文明が、

自然の破壊、

ひいては

人間生活の破壊を招いて

公害問題となり、

今や文明の錯誤・失敗が

やかましく論じられるようになってきました。

まさに

智慧出でて

大偽になってしまったのであります。

同様に

親子・兄弟・夫婦等の親しい間柄が

円満でよく和合しておれば、

無、無心で何も言うことはない。

それが和していないと、

親に孝行しなければならぬ、

親は子を慈愛しなければならぬ

というような問題が発生してきます。

孝とか慈とかいうことが

すでに

六親(りくしん・ろくしん:最も身近な六種の親族。

父・母・兄・弟・妻・子。

また、

父・子・兄・弟・夫・婦などや、

広く親族全体をさしても用いる)

が和を欠いているからである。

また

国がちゃんと治まっておれば

忠臣などいらない。

国家が混乱するから、

これを

何とかしなければならぬ

という忠臣が現われてくるというのです。

 人々は

孝子だの

忠臣だのと

礼讃するけれども、

これは

人間の堕落を証明するものでしかない。

人間は健全であれば、

仁義も道徳も、

孝子・忠臣もいらない。

いらないのではなくて、

出てこなくて済むのである。

まことに

老子らしい考え方であります。

? したがって、

一番偉い至極の人間は

「之あるを知らず」、

世間はその存在すらわからない。

俗人・凡人の目につかないのです。

? 次は

「之に親しみを誉む」、

よい人だ、立派な人だと民衆が親しみ礼讃する。

? 三番目のクラスの人間になると

「之を畏(おそ)れる」、

あの人はできる人だ、

怖い人だといって畏れる。

? 最後は「之を侮る」、

あんな奴はだめだと侮る。

これも老子らしい考え方です。

○ 上士・中士・下士

 それでは、

大道とはどういうものかというと、

−−

 上士は道を聞いて勤めて而して之を行ない、

中士は

道を聞いて

存するが若(ごと)く

亡するが若(ごと)し。

下士は

道を聞いて

大いに之を嗤(わら)う。

嗤(わら)わざれば

以って道と為すに足らず。

−−

 本当にできた人は

道というものをよく理解する。

 そして

道を聞いて

自分で努力して

これを実行しようとする。

 ところが

中くらいの人間になると、

道を聞いても

わかったような

わからんような有り様である。

 最も下の人間に至っては、

道を聞いても

そんなことができるものかと

大いに笑う。

 笑うようでなければ

道と為すに足らない。

 近頃の人間は、

ヒッピーやフーテンとまではいかずとも、

むやみに新しがって

いい気になっている連中は、

仁義だ道徳だと言うと笑う。

 古いとか

時代遅れだとか

進歩がないなどと言って冷笑する。

 そのように

つまらぬ人間が

笑うようでないと

本当の道ではないというわけです。

○ 三宝

 その老子

いわゆる「老子三宝の章」という

有名な一章があります。

−−原文−−

 我に三宝あり。

(持して之を保つ。)

 一に曰く慈。

二に曰く倹。

三に曰く敢(あ)えて天下の先とならず。

慈なり、

故に能(よ)く勇。

倹なり、

故に能(よ)く広し。

敢(あ)えて天下の先とならず、

故に能(よ)く器の長と成る。

今慈を捨てて且(か)つ勇に、

倹を捨てて且つ広く、

後(おく)るるを捨てて先んぜば、死せん。

−−解説−−

 我に三宝あり。

第一に慈。

第二に倹。

第三に人を先にやる。

世間の人間は先頭になろうとして争うが、

そういうことをしない。

慈愛があるから勇気が出る。

倹、

つまり

くだらぬ私心私欲に関心がないから心が広い。

愚人・俗人と競争などしないから

自然に大物になる。

今これに反して、

慈愛を捨てて勇に、

倹約におかまいなく、

あれもこれもとなり、

人を先にやることを捨てて己が先に立てば、

生を失ってしまう。

 そのとおりですね。

今日のような

到るところ

矛盾・衝突・混乱の社会になったというのも、

要するに

人間が慈を捨てて

倹を捨て、

省を捨てて

功利に走ったからでありまして、

こういう社会に生きておると、

本当に

肉体的にも

生命的にも

だんだん病的になってまいります。

○ 木鶏の説

 この老子の後学で、

恐らく

老子

その最も代表的な後進である荘子

前後する人と思われるのが列子であります。

しかし、

この人については、

老子の後学で

荘子の流れであると推定される以外、

全くわかっておりません。

 その「列子」に

「木鶏」の話があります。

−−原文−−

 (省略)

−−解説−−

これと同じ話が

荘子・外編」にも出ております。

紀省子という人が

闘鶏の好きな王

(学者によって異説もありますが、

一般には周の宣王ということになっています)

のために

軍鶏(しゃも)を養って

調教訓練しておりました。

そして

十日ほど経った頃、

王が『もうよいか』と聞きましたところが、

紀省子は、

『いや、まだいけません、

空威張りして

「俺が」というところがあります』

と答えました。

さらに十日経って、また聞きました。

 『未だダメです。

相手の姿を見たり声を聞いたりすると

昂奮するところがあります』。

また十日経って聞きました。

 『未だいけません。

相手を見ると

にらみつけて、

圧倒しようとするところがあります』。

 こうしてさらに十日経って、また聞きました。

 そうすると

初めて

『まあ、どうにかよろしいでしょう。

他の鶏の声がしても

少しも平生と変わるところがありません。

その姿はまるで木彫の鶏のようです。

 全く徳が充実しました。

 もうどんな鶏を連れてきても、

これに応戦するものがなく、

姿を見ただけで逃げてしまうでしょう』

と言いました。

 大変面白い話でありますが、

私は

この話を

往年の名横綱

双葉山関にしたことがありました。

これは

双葉山関自身が

『相撲求道録』

という本に書いておりますが、

まだ

横綱になる前の

大変人気が出てきた頃でした。

双葉山をひいきにしていた

老友人に招かれて

一緒に飲んだことがあるのです。

なにしろ

私もまだ若かった頃ですから、

つい

一杯機嫌で、

『君もまだまだダメだ』と申しましたところ、

さすがに

横綱になるだけあって

私もそのとき感心したのですが、

『どこがいけないとお考えですか』

と慇懃(いんぎん)に尋ねるのです。

 そこで

私が

木鶏の話をいたしましたところが、

大層感じ入ったらしく、

それから

木鶏の修行を始めたのです。

 その後は

皆さんも

ご存知のように、

あのような

名力士となって、

とうとう

六十九連勝という

偉業を成し遂げたのであります。

 なんでも

そのとき、

私に

木鶏の額を書いてくれということで、

書いて渡したのでありますが、

その額を部屋に掛けて、

朝に晩に静坐して

木鶏の工夫をした。

本人の招きで

私も一度まいりました。

 今度の大戦の始まる直前のことでありますが、

私は欧米の東洋専門の学者や

当局者たちと話し合いをするために

ヨーロッパの旅に出かけました。

もちろん、

その頃は

まだ

飛行機が普及しておりませんから

船旅ですが、

ちょうど

インド洋を航行中のときでした。

ある日、

ボーイが

双葉山からの電報だ

といって部屋に飛び込んできました。

なにしろ

当時の双葉山

七十連勝に向かって

連戦連勝の最中で、

その人気は大変なものでしたから、

ボーイも

よほど興味を持ったらしい。

そして

『どうも電文がよくわかりませんので、

打ち返して問い合わせようかと

係りの者が申しておりますが、

とにかく

一度ご覧ください』

という。

早速手にとってみると、

「イマダモクケイニオヨバズ」とある。

双葉山から

負けたことを報せてきた電報だったのです。

なるほど

これでは

普通の人には

わからぬのも無理はありません。

この話がたちまち船中に伝わり、

とうとう

晩餐会の席で

大勢の人にせがまれて

木鶏の話をさせられたのを覚えています。

 その後

双葉山の木鶏の話が自然に広がり、

あちこちに

鶏ならぬ

人間の木鶏会ができました。

しかし、これは結構なことです。

○ 東郭先生

 もう一つ、

木鶏と似た話が

列子』の中にあります。

「東郭先生と北宮子・西門子との問答」

というのがそれであります。

東郭先生は

北宮子・西門子のお師匠さんで、

これは

道に達した人です。

二人の弟子のうち、

北宮子は

なかなか徳のある人であるのに対して、

西門子は

非常な才物で、

何をやっても評判になり、

どんどん出世していきました。

ところが

有徳の士である北宮子は

人から鈍物扱いされて

一向芽が出ない。

そこで

あるとき

北宮子が

西門子に、

『君はとんとん拍子に出世するが、

俺はさっぱりだめだ。

いったいどういうわけだろうか』

と聞きました。

すると

西門子は

『そりゃお前は鈍物だからだめなんだ』と

軽蔑して

こう言いました。

それを東郭先生が聞いて、

『それはとんだ間違いだ。

北宮子は有徳の人物であるから

世間の人間にはわからないのだ。

お前は才物だからよくわかる。

お前と比べたら

北宮子のほうがはるかに立派である』

と言って叱りました。

そこで

西門子も

ようやく気がついて、

『先生お許しください、

私が悪うございました』

と言って

謝るわけです。

老荘的学風がよくうかがえる

面白い問答であります。

○ 物化

 これが荘子となりますと、

また

一段と名文で、

かつ

独特の論理で縦横無尽、

よくも考え

書けたものだと思うような

一大文学をつくり上げています。

だから

老子から列子荘子と読んでまいりますと、

何とも言えぬ

いい気持ちになって、

浮世の

こせこせした問題だの

理屈だのが消えて

救われるような、

会心の喜びを覚えるのであります。

ただ

荘子の文章は非常に難しくて、

容易に読めないのが欠点でありますが、

しかし、

それだけに

読むとまた、

面白みも一層深いものがあります。

 荘子は名は周といい、

孟子とほぼ同時代の人でありますが、

どういう運命か

二人は

ついに

相合うことがありませんでした。

もし

この二人が出会って

問答をやっていたら、

いったい

どういうことになっただろうかと、

孟子

あれだけの大雄弁家でありますだけに、

後世の我々としては

本当に惜しまれてならないのであります。

荘子はまた

儒教にも通じておりました。

したがって

荘子』の中には

孔子孔子の弟子たちのことが

盛んに出てまいりまして、

しかも

往々にして

揶揄翻弄されています。

しかし、本筋は別ではないのであります。

 その『荘子』に

荘子夢に胡蝶となる」

という

有名な一章があります。

これは

文学としても

世界的な名文だと

外国の学者まで讃美していますが、

荘子自身が蝶になった夢を見るわけです。

 彼はそれを「荘子が夢で蝶になったのか、

蝶の夢に荘子が出てくるのか、

荘子の夢か蝶の夢か、

我・我を忘る」、

どっちがどっちか

わからなくなったと

書いております。

 文章も名文ですが

その表現の巧さに、

思わず感嘆させられます。

荘子

この、

夢に

自分が蝶に化したのか

蝶の夢に荘子があるのかということを

「物化」、

物が化すると言っております。

彼には

仏教仏説でいう十二因縁、

生老病死といった

少し暗いものを感じます。

そして

それを

人間的から大自然のほうへ入っていって、

生老病死を大自然の一つの化、

変化だと観じております。

荘子』の中で面白いものに

「夢の説」があります。

彼は

人生は夢、大夢だといっています。

さらに

夢というものは

「古の真人は、その寝(い)ぬるや夢見ず、

その覚むるや憂なし」、

俗人ほど

うとうとと過ごして夢をみるが、

真人はぐっすり寝込むから夢を見ない、

醒めても

夢のような憂いはない

とも言っています。

 これまた

荘子』の中でも

讃嘆すべき名文でありますが、

これを読んで感動したアメリカの学者が、

科学的に夢を研究して

大きな成果を挙げました。

そして

シカゴ大学などには

夢の研究所までできておりまして、

それらの所説を読みますと、

同じ夢でも

我々の考えているのと

科学的真実は大変違います。

普通

我々は

『ああ、夢を見た』

と申しますように、

夢を見たのは

わずかな時間で

後は

ぐっすり眠っておると考えています。

 ところが

科学的研究によると、

本当に熟睡するのは

最大限六、七十分で、

それを過ぎると、

後は

うとうと夢を見ている。

それからまた眠り、

また眠りが浅くなって夢を見る、

という繰り返しだというのであります。

ところが

その夢のほとんどは

すぐ意識の深層に隠れてしまって、

ごく一部が

目覚めてからもまだ記憶に残っている。

そのときに初めて

『ああ、夢を見た』

と思うわけです。

が、それも極めてまれな場合で、

ぐっすり眠ったと思っていても

実は夢を見ている時間のほうが長いのです。

ただ

意識しないだけのことであります。

「人生夢のごとし」

といいますが、

ごとしではなくて

本当に人生は夢なのです。

 シカゴ大学

夢の研究所がありますが、

ロンドン大学には

息の研究所があります。

 まるで

老子を実験室に入れたような研究がありますが、

それらの説はまた

大変参考になります。

 そもそも呼吸とは、

呼は息を吐くことであり、

吸はすうことでありますから、

まず

吐いてから

吸うのでなければ

本当の呼吸とは言えない。

 ところが

大抵の人は

吸呼している、

吸ってから吐いている。

 これではいけません。

 だから

朝起きると

まず

窓を開け放して、

眠っていた間に蓄積していた

肺の中の汚れた空気を

思い切り吐き出して、

それから

新鮮な空気を吸う。

普通の人間の呼吸では、

吐き出すのは

大体

肺の中に溜まっている空気の

六分の一くらいで、

残りの六分の五は

底へ沈殿しているのです。

 しかも

肺が一番活発に活動するのは

朝の五時から七時までだというのですから、

朝起きが非常に大切になってまいります。

 肺と太陽には密接な関係があるわけです。

 肺に限らず

我々の内蔵の活動は

すべて太陽と関係があって、

どの器官が

何時に

一番

能率的に活動するか

という時間が

それぞれあるのです。

 肺は

その時間が

朝の五時から七時までですから、

人間は

遅くとも六時くらいに起きて、

肺に溜まっている空気を吐き出し、

新鮮な朝の空気をうんと深く吸い込む、

これが本当の呼吸というものであります。

そこで

道家では

呼吸と言わずに

「吐納(とのう)」

と言っています。

そして

吐き出したら、

今度は

胸いっぱい深く吸う。

荘子』を読みますと

「真人の息は踵(きびす)を以ってし、

衆人の息は喉を以ってす」

と書いてあります。

きびす、

すなわち

かかとで息をするということは

深く息をすることです。

ところが

衆人の息は浅くて咽喉でやっている、

呼吸は喉(こう)息ではだめで、

踵(しょう)息でなければいけません。

 しかし、

吐くということは

呼吸にとって

大切なばかりではありませんので、

何でも

まず

吐かなければいけません。

皆さんのほうでも

「出納」ということがあります。

 出は

だすときは

「すい」、

「いづる」という自動詞のときは

「しゅっ」という音ですから、

出納の場合は「すいとう」であります。

 まず

銀行は

出して

入れなければいけません。

 納出ではなくて

出納しなければいけません。

取り込むだけの握り屋はだめでありまして、

よく費やし散じて、

そうしてよく入れる。

胃や腸でも同じことです。

まずよく出して入れる。

出さないで入れると、

たちまち病気になります。

文字というものは

まことにデリケートなものであります。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

 安岡先生がご紹介された名文の数々には、

底知れない奥深さというか、

計り知れない拡がりが

含蓄されておりますので、

じっくりと玩味していただきたい。

 最後の方で

安岡先生が説いておられるように、

実に多くの人たちは

間違った呼吸の仕方をしております。

 これは

実に由々しき問題でありまして、

肺呼吸をする動物にとっては、

基本中の基本というか、

根本的な大問題であるにもかかわらず、

これに

何の問題意識も持たない人が

圧倒的に多いのです。

 この間違いは、

諸悪の根源と言ってもいいくらいで、

人間の生命そのものを損なうものです。

 安岡先生は

昔から言い慣らされてきたような例を挙げながら、

大昔の賢人の智慧を

分かりやすくご説明くださいましたが、

それでも

何の考えもなく

読み流してしまうのが、

凡人といわれる人たちであります。

 呼吸は、

必ず

先に

腹筋に力を入れて、

肺の中の空気を全て吐き出すのです。

その次に

腹筋の力を抜けば、

ごく自然に空気が肺に入ってきます。

そして、

この

呼吸の回数を数えているだけで、

ごく自然に

瞑想状態に入ることもできるのですから、

その効用には

計り知れないものがあるのです。

 2013年のビジネス部門で

年間ベストセラー第1位になった、

スタンフォードの自分を変える教室』の中で、

心理学の学者、

ケリー・マクゴニガルが、

この

呼吸を数えて

瞑想状態に入る方法を

紹介してくれました。

 私は

この瞑想法を

実際に試してみたところ、

想像を絶するほどの変化や進化を

私の人生に起こしてしまい、

その影響は

未だに

益々強化されておりまして、

留まるところを知らない勢いでございます。

私は

どこまで

成長・進化するのか、

自分でも

想像できなくなりました。

それほどの効果がございます。

それほど凄い。